日本同盟基督教団開拓伝道略史
「燎原の火の如く」から転載 日本同盟基督教団顧問・中野教会名誉牧師 木下弘人
◎日瑞同盟基督協会の設立
E・F・フランソンは一八九一年、シカゴ市に「北米スカンジナビアン・アライアンス・ミッションを組織し、十一名の理事を選任した。同年の前年の前半に支那に五十二名、年末に十五名の宣教師を日本に派遣した」。十二月のフランソンの書簡に日本派遣宣教師の紹介がある。
「日本の宣教は日本アライアンス・ミッション委員会が担当し、西部地方の宣教献身者と支持者を期待しています。日本に向かう十五名の宣教師は、西部諸州の山岳及び毎岸地方の出身ですが、イリノイ州一名、ペンシルバニア州から一名が参加しています。男子六名中二名は伝道者で、四名は信徒ですが、伝道の経験者たちです。九名の婦人中、一名は伝道者、一名は英国留学を終えたラテン語に湛能な教員です。最年少は十八歳、最年長は三十五歳、残りは二十代後半の人々です」。
宣教団初期の名称は「日瑞(ニチズイ)同盟基督協会」であった。
◎小崎弘道に助言を求める
この時期の国内は、明治政府が一八八八年(明治二十一)、帝国憲法、同八九年皇室典範、同九〇年教育勅語を制定して、国家神道を基本とする天皇制支配体制を確立したときでした。宣教師が到着した一八九一年の始めに内村鑑三の不敬事件が起り、キリスト教に対する非難が盛んになった年に当たっている。翌九二年の通信によると千葉県・上総湊(かずさみなと)の佐貫町にジョンソン、スコグルンド、アウレル、リンドストロムの四名が住んで、房総半島の各地を海、陸から巡回し、天津小湊(日蓮誕生地)に講義所を設立した。岐阜県竹が鼻、栃木県宇都宮に、神戸市栄町に伝道したことが記録されている。ミス・ハンナ・アンダーソン、同アンナ・ダニエルソン、O・シーホルムが神戸の開拓伝道に当たった。翌明治二十七年には神奈川県浦賀、鎌倉にミス・A・ピーターソンほかの宣教師が伝道に従事している。
一八九四年(明二十七)は、E・F・フランソンが、インド、中国を経由して来日し、当時のキリスト教の指導者の一人、小崎弘道と会って、同盟宣教団の使命を述ベ、伝道地に対する助言を求めた。小崎牧師は、日本の福音未伝の伝道地として飛騨地方、伊豆離島地域を示唆した。この提案に応じて、ミス・アンナ・ダニエルソン、同エルダ・カールソン、さらにK・アウレル、F・O・ベルグストロム(明治二十六年日本派遣)が参加して岐阜飛騨地方に向った。アンナ・アンダルソンは、通訳田丸源次とともに高山に入り、翌一八九五年正月、アウレル、ベルクストロム、ミス・エルダ・カールソンの三名は、郡上郡八幡に伝道地を設け、雪中を駆って高山を巡回したようである。伊豆大島にF・O・ベルクストロムが渡島して伝道したのは一八九四年(明治二十七)であり、波浮港と元村に滞在して、通訳の友野氏とともに大島六力村を巡回した。一八九五年には、千葉船橋、幕張、行徳に伝道所を開設し、東京本所小梅町、飛騨の古川、船津に開拓伝道を始めた。
◎伊豆半島、伊豆七島伝道
一八九七年、アンナ・セットランドは大島に定住し、島内六力村はもちろん他島まで伝道している。飛騨では、一八九五年、E・F・フランソンの二回目の日本巡回の折にベルグストロムとエルダ・カールソンの結婚を司式した。一八九九年十一月、医師佐々木正懿、判事飯田高郎等の協力により、高山三之町に教会を建設した。この年の十月二十一日、J・アンダーソンが日本に派遣され、姉ハンナ・アンダーソンとともに高山に定住した。一九〇二年(明治三十五)一月にアウグスト・マッソンが日本派遣宣教師として来日し、大島、伊豆、伊東に定住して伊豆半島、伊豆七島を伝道した。一九〇四年に宣教師団は、「在日日本同盟基督協会宣教師社団」を設立して認可を受けた。
E・F・フランソンの第三回目の訪日は、一九〇三年三月であり、四月にはベルクストロムを伴って大島を巡回し、土肥貞次、須永徳太郎、A・マッソンの離島伝道者三名の按手礼を執行した。その後、北海道から千葉、東京、岐阜、大阪、兵庫の各宣教地を巡回した。
一九〇五年(明治三十八)九月五日、日露戦争勝利のポーツマス条約を不満とする暴徒により東京市内の焼打事件が勃発し、本所小梅町の宣教師館、教会堂は破壊全焼し、ベルクストロム一家は無事危難を脱出した。この年の十二月に真嶋慶三郎前救世軍士官が同盟協会に加入し、深川猿江町伝道所伝道師として就任した。一九〇九年(明治四十二)五月、ミッションは、中野町上ノ原一五番地に宣教師館を建設、一九一一年(明治四十四)には三宅島阿古村、飛騨下呂町に伝道所を設立し、中央線東中野西口に中野教会を設立した。
◎日本人のための教会形式
明治二十年頃から教会合同に反対する外国ミツションの教派主義に屈服した日本のキリスト教伝道は、各派競合して教派形成の道を進んだ。超教派伝道団体である同盟協会の宣教は、伝道することに専心し、教会形成は他教派に委任した。そのために教派としては、全く進歩の跡を残していない。一九一三年九月、C・E・カールソン夫妻が日本に派遣されたが翌大正三年の教師名簿によると、宣教師七名、教師十九名、計二十六名」一九一六年「日瑞同盟」は「日本同盟」と改称され、一九二二年(大正十一年)日本同盟基督協会第一回年会が東京で開催された。この年会は重大な歴史約意義をもつこそれは教派を作らない同盟宣教団体が、宣教他日本において日本人教職と信徒による日本人のための教会形成に踏み切ったことであり、第二にミッションの経済約支援の下から財的独立という苦しい選択をしたことであった。
◎同盟協会の歴史の最低期
一九二二年(大正十二年)の関東大震災で熱海教会は、津波で流失、伊東教会もまた甚大な被害を受けた。一九二六年(大正十五年)米国の同盟ミツション本部理事長、G・ピールが来日し、臨時理事会を開催、「日本同盟基督協会の経済的独立と発展」を主な議題として祈りと協議をしている。一九二六年六月、日本伝道三十四年、最も多くの働きを遺してF・O・ベルクストロムは引退した。第一次世界大戦後の累積経済不況は、一九二九拝には米国の工業生産は半減し、失業者千三百方、銀行破産四千五百件に及んだ。この状況は、次第にミッションの海外宣教支援グループの国外宣教献金の低下につながり、世界の宣教地域からの引揚げに到らせた。一九一二年の日本の教会統計によると、同盟協会は宣教師七名、日本人教師五名、教会数五と発表されているが、一九二ハ年(昭和五年)の第七回同盟協会の年会は宣教師三名、教職五名、教会代表十三名である。この時期が同盟協会の歴史の最低期であった。一九二七年十月十七日の理事会では、教会の自給促進の件を協議するに当たり、ミッションは、期限付で援助の打切を提案した。たとえぼ千葉、伊東の二教会は二カ年、高山、古川、船津の三教会は三カ年以内に自給を要請した。
◎燃え続けた開拓伝道精神
一九三四年(昭和九年)一月、A・ピーターソンは、米国で急逝し、在日四十三年の宣教歴を栄光のうちに終った。在日宣教師は、二名を残すのみとなった。自給困難な教会の教職者は、退職する外はなく、無牧となる教会を守るために信徒の勤士、福音士を選任して、船津、古川、宇佐美、新島、大島岡田等の教会、伝道所を守る。こうした困難の中にも開拓伝道により、下田、稲取、宇佐美(以上伊豆半島)、岡田(大島)、雑色(東京)等の伝道所設立が積極的に行なわれ、フランソンの開拓伝道精神は燃え続けていた。一九三六年(昭和十一年)にはドイツ・リーベンゼラー・ミッションの宣教師三名、伝道師五名および教会が加入合併した。この年の報告は、十七教会、十八伝道所、宣教師六、教師十三と記録されている。
◎宗教団体法による合同へ
このようにして、どん底から脱出して、日本同盟基督教会の自給独立体制が前進してゆくかに見えたが、ここにその行く手を阻む歴史的事件が待っていた。ファシズムと帝国主義的侵略戦争時代の到来であった。
昭和十四年、宗団体法が成立し、国内の宗教は完全に軍団主義政府に掌握される道を進んだ。昭和十五年、一九四〇年には日本紀元二千六百年記念国民祝賀大会が全国で行なわれ、キリスト教も青山学院を会場とし、奉祝記念全国基督教信徒大会を開き、教会合同宣言を行なったのである。十月に、同盟教会第十七回年会が、東京・京王線国領駅、東京基督教女子青年会憩いの家を会揚にして開かれた。この総会で同盟協会は、信仰傾向が以通っている自由メソジスト教会、ナザレン教会、世界宣教団の三団体と合同して、日本聖化教団を結成し、プロテスタント諸派の一部を形成して、日本基督教団に参加することを決定したのである。
一九四〇年(昭和十六年)六月二十四日、東京富士見町教会に、日本基督教団創立総会が開催された。
教団構成は、箭一部日本基督、第二部日本メソジスト、第三部日本組合、日本同胞、日本福音、キリスト、第四部日本パプテスト、第五部日本福音ルーテル、第六部日本聖教会、第七部日本伝道基督、第八部日本聖化、第九部きよめ、第十部日本独立教会同盟、第十一部救世軍、以上の諸教派の統合であった。
その年の十二月勃発した第二次世界大戦中、かつての同盟基督協会の所属諸教会は、部制の中で、そして部制解消以後は日本基督教団地方教区に属する教会となったのである。