教会略史

 

前史

わたしたちの中野教会は、アメリカのプロテスタント会衆派の伝道者であった、フレデリック・フランソンが世界宣教のために設立した「スカンジナビア・アライアンス・ミッション・オブ・ノースアメリカ」を源流としています。

1891(明治24)年11月に同ミッションの男女15人のスウェーデン人宣教師達(内3人は伝道者、他12人は信徒伝道者)がシカゴから来日。彼等の日本本部としてわたしたちの教会はスタートしました。

初めの教会堂は、1896(明治29)年10月に現在の墨田区向島に本所小梅町教会として設立され、貧しく、弱い立場の人々に伝道をしました。主な伝道者はK・E・アウレル宣教師と献身後間もない田丸源次郎伝道師でした。1903年には二人ともミッションを退団することとなり、千葉からF・O・ベルグストロム宣教師が赴任して来ました。

1905(明治38)年9月、ポーツマス条約を不満とする暴徒の焼き討ち事件に会い会堂は破壊されましたがベルグストロムは事前の通報により奇跡的に難を逃れました。また、後に小梅町教会の牧師となる星野房次郎がこの時住んでいた本所松倉町の講義所も暴徒により悉く焼き払われてしまいました。しかし、これらの焼き討ちにもめげず彼等はこの地での伝道を継続して行きました。この年の12月には後に中野教会の牧師となる眞嶋慶三郎が猿江町講義所の伝道師として着任し、東京地区の伝道は力を増しました。

ベルグストロムは暫くの間、星野牧師とともに小梅町の活動を続け、1905年には東京西郊の当時は田舎町であった東京府下の中野町へ新たな伝道地を見出し伝道を開始しました。1907年に台風による隅田川の氾濫に遭い、大きな被害はありませんでしたがミッションは中野へ本部の移転を決定しました。

 

②中野宣教開始

1907(明治40)年11月に現在地を購入して伝道を開始し、1909(明治42)年5月に宣教師館及び多目的ホールの福音館を建築しました。教会堂はいくつか場所を変えましたが、1915(大正4)年4月には青梅街道沿い宝泉寺前に新会堂を建て移転しました。

当時の中野区は東京府下の長閑な田舎町で、当教会は中野町における最初のキリスト教の教会となりました。当時は地域の名称を使って「小下(こしも)同盟基督協会」と称しておりましたが、中野町の発展とともに「中野同盟基督教会(通称中野教会)」と称すようになりました。この時、同時に伝道師であった眞嶋慶三郎は按手礼を受けて初代牧師となりました。

1917(大正6)年11月には眞嶋牧師の病気静養のための高山転任に伴い高山教会から日本伝道隊の梶原景盛牧師が着任、しかし翌年9月には梶原景盛牧師が赤穂教会へ転任することとなり、代りにホーリネス教会の小出朋治牧師を廣島アライアンス教会から招聘、1920(大正9)年6月には眞嶋牧師が中野教会復帰することとなり小出牧師は伊東教会へ転出と目まぐるしく主任教師が変わりました。1920(大正9)年7月からは中野教会出身の松田政一が伝道師として1年間奉仕することになりました。

1922(大正11)年10月にはスカンジナビア・アライアンス・ミッションに属する日本人教師、信徒が教会の自給独立を目指して年会を創立し当教会で第1回年会を開催、教派の名称を「日本同盟基督協会」としました。

 

③戦前発展期

1925(大正14)年5月、眞嶋牧師の船津教会転任と入れ替わりに松田政一が牧師として招聘されて来ました。この年から松田牧師の長期牧会がはじまります。

1935(昭和10)年4月1日には中野教会付属上ノ原幼稚園の前身、福音幼稚園を開設しました。教諭は元中野教会員であり、第2代牧師夫人となった梶原政子で、1934(昭和9)年7月に未亡人となり、赴任先の広島県松永から古巣へ戻り、経験を生かして短期間でありましたがその任にあたりました。

1940(昭和15)年7月、中野区本郷で開いていた雑色家庭集会から日本同盟基督協会宣教50周年を記念して中野本郷教会を設立しました。(現在は日本ナザレン教団中野教会となっています。)

 

④教会合同

1940(昭和15)年11月、宗教団体法の施行により、当教会の属する日本同盟基督協会は解散し、日本自由メソヂスト教会、日本ナザレン教会東西部会、世界宣教団とともに日本聖化基督教団を結成しました。そして 更に1941(昭和16)年6月、日本基督教団には合同しました。1944(昭和19)年には安斉政威牧師が副牧師として着任し、戦争中の多忙な日々に松田牧師を支えました。

1945(昭和20)年3月、中野区の青梅街道沿いの建物疎開により教会堂が取り壊されたため、宣教師館のあった現在地へ移転して礼拝や諸集会をすることになりました。しかし、5月25日の大空襲により地域一帯と共に全焼してしまいました。一時はバラックで礼拝をしていましたが、1946(昭和21)年秋から1948(昭和23)年8月に牧師館が完成するまで高円寺で礼拝をすることになりました。教会員の多くは千葉県、茨城県、岡山県など疎開先で細々と家庭集会を守っていましたが、これらの集会はやがて教会を形成するようになりました。

 

⑤戦後の歩み

1948(昭和23)年7月、かつての宣教師達の再来日に伴い、日本基督教団を離脱し日本同盟基督教団再建の本部教会としての役割を果たしました。なお、離脱しなかった諸教会とはマケドニア会を通して現在も友好関係にあります。

1950(昭和25)年2月、焼け跡に教会堂を再建し、戦後のキリスト教ブームも手伝って順調な歩みだしを始めました。

1962(昭和37)年3月、病に倒れた松田牧師の後任として、旧同盟の日本基督教団西千葉教会から木下弘人牧師を招聘し、中野教会は充実した教会形成期を迎えました。

1972(昭和47)年2月、老朽化した木造の会堂に代り現在の会堂を竣工しました。

1976(昭和51)年5月、木下牧師の退任に伴い、副牧師の坂井栄一牧師が主任担任教師となり教会の展開期を迎えました。1990(平成2)年には教育館を献堂、かつてこの地にあった多目的ホールの名前に因んで「福音館」と命名しました。

1992(平成4)年11月、中野宣教85周年記念礼拝を挙行しました。

1993(平成5)年4月、坂井栄一牧師の退任に伴い、亀田キリスト教会から坂本誠牧師を招聘しました。中野宣教90周年を1997年に迎え、証し集を出版しました。

1998(平成10)年4月、坂本誠牧師の退任に伴い、赤羽聖書教会から石川弘司牧師を招聘しました。

2007(平成19)年、中野教会宣教100周年を記念し、記念礼拝を持ちました。

2013(平成25)年4月、石川弘司牧師の退任に伴い、白百合福音教会から河村冴牧師を招聘しました。

 

 

 

 

日本同盟キリスト教団 東中野駅( JR中央・総武線/都営地下鉄大江戸線)から徒歩4分  1907年から中野区で宣教しているプロテスタント・キリスト教会